~平清盛、源義経、壇ノ浦の戦い、北条氏、征夷大将軍などを学ぼう~
1. 鎌倉幕府ってなに?
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、1185年に源頼朝(みなもとのよりとも)が作った
日本の新しい政治の仕組みです。
「1192(イイクニ)つくろう 鎌倉幕府」
と教わった方も多いのではないでしょうか。
現在の中学校社会科では、1185年になっているようです。
・1185年:守護と地頭の任命・幕府の制度が整う
・1192年:征夷大将軍に頼朝がなった年
それまで日本は、天皇が中心となって政治を行っていました。
源頼朝が武士(ぶし)の力を使って政治を行うようになり、武士がリーダーになる時代が始まります。
鎌倉という地名は、源頼朝が政治を行う場所を置いた神奈川県の都市の名前です。
2. 平清盛ってどんな人?
平清盛(たいらのきよもり)は、鎌倉幕府ができる前に、日本の政治を実際に動かしていた武士です。
平清盛は、平氏(へいし)という一族のリーダーで、天皇の力を借りて日本を支配していました。
しかし、源氏(げんじ)という別の一族が平氏に立ち向かい、平氏との戦いが始まります。
これが、後に「源平合戦(げんぺいがっせん)」と呼ばれる戦いです。
3. 源平の戦いってなに?
源平合戦は、1180年から1185年にかけて源氏と平氏が日本のリーダーの座を巡って戦った
戦争のことです。
源氏のリーダーは、源頼朝とその弟の源義経(みなもとのよしつね)。
東国(東日本)側で活動していました。
一方、平氏のリーダーは平清盛とその家族です。
西国(西日本)側で活動していました。
武士の中で源氏と平氏が表舞台で活躍した理由の一つに、天皇家の血筋だったと言われています。
日本中で源氏と平氏によるたくさんの戦いがありましたが、最終的には源氏が勝利しました。
4. 壇ノ浦の戦い:決定的な瞬間
源平の戦いの中でも、最も有名なのが「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」です。
壇ノ浦は、1185年に現在の山口県で起こった大きな海での戦いでした。
この戦いで、源氏のリーダーだった源義経が、平氏を完全に打ち破り、平氏は滅びてしまいました。
これによって、源氏が日本全体を支配することが決まり、
源頼朝は武士のトップに立つことができました。
5. 源義経の悲劇
源義経は、兄の源頼朝と共に平氏を倒すために大きな役割を果たしましたが、
彼の人生は悲しい結末を迎えます。
戦いの後、源頼朝と義経の間に誤解や対立が生まれ、義経は兄に追われる身となりました。
最終的に義経は、自分を守ってくれる場所を探して各地を逃げ回りますが、
最後には自ら命を絶ったと言われています。
この出来事は、日本の歴史の中でも特に悲しい話として語り継がれています。
6. 鎌倉幕府の始まり
壇ノ浦の戦いで勝利した後、源頼朝は鎌倉に幕府を開きます。
これが「鎌倉幕府」の始まりです。
鎌倉幕府は、日本で初めて武士が政治を行う政府であり、
それまでの貴族(きぞく)中心の政治とは大きく違いました。
頼朝は自らを「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という役職に任命しました。
これは、天皇から与えられるとても偉い称号(しょうごう)で、
日本全土の武士を統率する権限を持つものです。
7. 北条氏と鎌倉幕府
源頼朝が幕府を作った後、彼を支えた家族の中に北条氏(ほうじょうし)という一族がいました。
特に、頼朝の妻である北条政子(ほうじょうまさこ)は、
頼朝の死後も幕府をしっかりと支えるために大きな役割を果たしました。
北条氏は、その後も幕府を支配する力を持ち続け、次第に政治の中心となっていきます。
8. 鎌倉幕府の影響とその後
鎌倉幕府は約150年間続きましたが、最終的には倒れてしまいました。
しかし、鎌倉幕府の設立は日本の歴史に大きな影響を与えたのです。
それまでの貴族による政治から、武士が中心となる政治へと変わり、
日本の武士道や戦国時代へとつながっていきます。
まとめ
源頼朝が作った鎌倉幕府は、日本の武士の時代の始まりを告げました。
平清盛との戦いや、源義経の悲劇、壇ノ浦の戦いなど、
たくさんのドラマがこの時代には詰まっています。
鎌倉幕府が日本に与えた影響は、今もなお続いています。
ぜひ、武士のくらしから現在に繋がっていることに、興味を持っていただけると嬉しいです。